人はいつ『大人』になるのか
人はいつ、大人になるのだろうか。
一般的には『成人』つまり、20歳になると煙草を吸ったり、お酒を飲んでもオッケーだぜ。と許可されるが、毎年1月にテレビジョンから放映される成人式の様子を見ている限り、彼ら彼女らが『大人』であるとはとても思えない。
かといって年輩の方、例えば会社の上司などが、家庭で奥さん或いは子供達との関係がうまいこといってなくて、そのモヤモヤを部下などにえいっ!とぶつけてくる。このような理不尽な理由で叱責するような幼稚で我儘な人間が『大人』であるとも思えない。
『大人』とは子供達にとって、模範でなくてはならない。
その大きくてかっこいい背中を見せる事によって、子供達は「うわぁ、あのような大人になりたい。僕たちはあのような大人に怒られたら、直ちにその誤った行いを是正して、まっすぐに、正しく、力強く生きていけるなぁ。」と思う為、やがて世の中は清く正しく美しい人間で溢れ、戦争は終わり、飢餓貧困は無くなり、皆が平等で、笑顔で溢れるユートピアが訪れるはずである。
しかし、戦争は続いている。飢餓貧困は無くならないし、いじめ、差別、格差、ちっともユートピアが訪れないではないか。
それはやはり『大人』が少ないからではないのか、そう思ってしまう。
年齢を重ねることでは『大人』になれないという事が明白になった今、再度問う、我々はいつ大人になれるのだろうか。
初恋をした、あの日か。
童貞、処女を卒業した、あの晩か。
振られて、枕を濡らした、あの晩か。
愛する事を誓い合った、あの日か。
人に騙され、涙を流した、あの昼か。
人を騙し、せせら笑った、あの夜か。
ビールを美味しく感じた、あの夏か。
大切な人の死に直面した、あの冬か。
ちがう。
我々が大人になるのは。
テリヤキバーガーをこぼさずに食べられた時である。
私は過去、幾度となくテリヤキバーガーを綺麗に食べようと挑戦してきた。
店内で、お持ち帰りで、自宅で、職場で、山で、川で、海で。
ある時はグランドキャニオンの岩の上で。
ある時はクフ王のピラミッドの頂上で。
ある時はK2の東壁4800m地点で。
あらゆる場所でテリヤキバーガーを綺麗に食べようとしてきた。
しかし何度挑戦しても、レタスの切れ端がズボンに落ちたり、バンズとバーグがずれて、先にバンズだけ食べきってしまって、最も食べたいソースのかかったバーグを床に落としてしまったりと、テリヤキバーガーをこぼさずに、上手く食べる事が出来なかった。
我々は『大人』にならなければならない。
そして子を産み、子を育て、次の世代へとそのバトンを受け渡さなければならない。
そのバトンがソースとマヨネーズでべたべたになったままではいけないのである。